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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 砂漠の燈台 1

砂漠の燈台


     序     1

 あの日から、そう、あの時から変わったのです。帰りの新幹線の中でスクリーンのように窓に映し出される風景が流れるのをじっと眺めながら、
「人生、こうでなくては面白くないではないか?」と思ったの。では、面白いって事はどうなのかって問われれば、あのときは応えられなかったでしょうが、今でははっきりとこうなのだって言えるのです。そんなに歳月が通り過ぎたって事はないのに。女って強いって思う。そして、割り切ることが出来る事をまた哀しいって思うのです。

 あれから五年、私も二十四歳になりました。あなたのことは、綺麗に心のフイルターで濾過されて美しい思い出となって私の記憶の中に棲んでいるのです。躓いたとき、落ち込んだ時、その記憶は蘇り私を叱り励ましてくれました。
「人生、こうでなくては面白くないではないか?」って。
 こうして、五年振りに手紙を出しているのは、あなたのお父様にお会いしたからなのです。たぶん、お父様はあなたに私と会ったと言う事はおっしゃられていないことでしょう。

 私が新宿から地下鉄銀座線に乗って有楽町へ上がって行きますとあなたのお父様が有楽町マリオンの方からこちらへゆったりとした足取りで来られているところでした。数寄屋橋跡では相も変わらず婦人会とかライオンズクラブの人達が華やかなユニホームに身を包み、ボランティアのチャリティ募金を誘っておりました。その声は人混みの衣服に吸収され、また、ビルとビルの合間を駆け抜ける風に流されていました。お父様は無碍に通り過ぎることのお出来になる方ではございません。何がしかの寄付をしたのでしょう、赤い風船を空に泳がせながらはにかんでいたのです。私はハッとしてそこに立ち竦んでしまいました。そして、存在を隠すように俯いたのでした。
「栞さん!しおりさんでしょう」
 少しかすれた声が頭の上から降ってきました。そのとき、初めて気づいたのですけれど、あなたの声ではないかと耳を疑うほどでした。それ程良く似ていました。いいえ、そっくりだったと言うほうが素直な表現でしょう。五年前よりは細くなっておられて、グレーのスーツがとても似合っていて、自然に任せた髪はすっかり白い物が多くなっておられ、瞳からこぼれる光は柔らかく和やかな物でした。
「はい」
私は見上げてすぐ視線を足元のタイルに戻して頷いたのでした。
「何か私に言う言葉はありませんか?」
少し湿った言葉がヒールの先で砕けました。
「いいえ、何もありませんわ」
「そうですか、言って頂いたほうが・・・楽に・・・。わがままでしたね、それは。お元気そうで・・・垢抜けしていて・・・確り大地を・・・」
申し訳なさそうにおっしゃって、それから呟いたのでした。
「はい、おじさまにはこう言うと生意気だ、知ったかぶりをして、と叱られるかも知れませんが、素直に「はい」と言えるのです」
 恨み事の一つも言って上げたほうがおじさまは気が楽になるのだってことはわかっていたのですけれど、先程も申しましたようにあなたとの事は濾過されていて純粋な物へと昇華していましたから、汚したくなかったから、恨み辛みは言うと心を汚すことになりますからね。
「有難う。すっかりレディになられているのですね。私は、今日こちらで友人の出版記念パーティがあるのに招待されましてね、時間があればいいのですが。あなたの貌を、溌剌とした姿を見ることが出来ただけで今までの心の塊が溶けていくようです。ここにチェツクインしておりますが、果たして帰れるかどうか・・・」
連絡先を書いた紙を差し出されたのですが、すぐに何を思ったか引っ込められて、
「そうです、そうです。私としたことが何を・・・何を血迷っているのでしょう。溢れてくる思いに負けて・・・そっとあなたが通り過ぎるのを見送っていれば良いものを・・・あなたの周囲に暖かい風が漂っているのが分かっていながら・・・」
「いいえ、私はこうして逢えて、栞は元気に生きていると分かっていただければ」
「一期一会、お互いに元気ならまたどこかの街角で・・・」
「ええ」
 やはりあの時、あなたのことが心の何処かにまだあったのでしょうか、あなたの事を切り出されたらどうしょうかと躊躇する心がありました。おじさまはその事には一切触れられず、まるで御自分の心を責めているようでした。右肩がお歳のせいか落ちているようでした。私はその後ろ姿が消えるまで見送ったのです。
 
     2

 初めての年の冬、広い道路を街路樹の葉が風に巻かれて舞い上がる景色はなんだか心が冷え込むような思いがしたものでした。コンクリートジャングルのライトアップが黄泉の國へ誘う灯りのように見えたのもホームシック故だったのでしょうか。人の体臭になれ、混雑の息苦しさに馴染み、喧騒の巷を足早に行き来することの出来る私になったのが不思議なくらいです。すっかりこの街の人になったような顔をして暮らしています。
 ゴールデンウィークの一週間は・・・。いいえ、口に出すと愚痴になりますし、未練を残しているようで悲しくなりますからやめときます。そんな弱い私ではありませんことよ。五年の年月が、無口な少女のこころを美事と言えるほど変えてくれましたもの。都会の著しい変化がそこに住む人間の心まで変えてくれるのですわ。窓からの見慣れた風景が半年もしないうちにガラス張りのノッポビルによって様変わりをしてしまうのですから、こころをそこに置いてなんてとても出来ないことなのです。この町にはそんな感傷が入り混む余地など在りませんから。金属の摩擦のような心のふれあう音が、冷たい人間関係を想像させますが、歳月が経ちますとその音が実は熱い心のふれあった後のものとして聞くことが出来るようになるのです。すれ違うだけで肌が暖かくなるようなそんな気がして来るのです。人間の心って本当に不思議だと思います。それが前進なのか後退なのかは良くまだ分かりませんが、だけど、今は分からないほうが良いと思うし分かったら何も出来ないような気がしますし・・・。

 新幹線の車窓の風景が連山の峰に白いものを被った景色に代わったとき、私にとっては運命的な事件が起きたのです。
「助けてください。誰か胸にぶらさがる・・・」
その声は弱々しいなにかに縋りたいと言う響きがありました。周囲には沢山の乗客がいましたが帰郷の疲れか殆どの人が泡沫の夢の中のようでした。私も考え事をしていなかったら眠りの中に落ち込んでいたでしょうが、悔しさと情けなさが心を支配していましたから昂ぶる気持ちを、外の流れを見ることで何とかぎりぎりのところでコントロールが出来ていましたからその言葉の意味は理解できたのです。
「ロケットの薬を出して飲ませてと言うことですね」
「・・・」
御老人は苦しみの中で訴えていたのです。
 私は御老人の首からぶらさがるロケットを素早くちぎり薬錠を、胸を押さえて耐えている御老人の舌下に入れました。
 
事実は本当に小説よりお面白いものです、奇なものです。
 その年の十二月の末に会社を辞めました。あなたと私のことは・・・。結婚して岡山にと言う風にこれは公然の事実のようになっておりましたから。もう抜き差し出来ない状態だったのですもの。そこにいますと色々と思い出しますから。惨めになりたく在りませんでしたから。可哀相にと言う視線に晒されたくありませんでしたから。
「困ったことがあったら何時でも相談に来てください」
御老人の言葉に甘えて訪ねたのです。
 そこは、東京の旧都心と言った感じで、坂道があり両側に石垣で土止めをした上に古い洋館建てが並んだ所でした。庭の植え込みは樹齢を経ていて、蒼空を突いておりました。上野近辺しか知らない私はこんなところが残っているのかと不思議に思ったものでした。まるで映画のワンシーンを見ているようで目を見張りました。
「どうです、ここにいて少しのんびりしませんか?疲れ過ぎては何も出来ません。あなたが望むのなら大学へ行けば良い。二十だったらもう遅いと言う歳ではありますまい。・・・なあに心配することはありません。これはビジネスですから。卒業したら私の秘書になってくれれば良いのです。それがビジネスです」
 御老人は、私の告白を総て聞いて下さりそうおっしゃられたのでした。和服がとても似合っておりました。新幹線の中で見た時よりなんだか小さく感じられたのは気の所為であったのでしょうか?
「少しお痩せになられましたか?」
「医者と言う奴はお節介なものでな、私のただ一つの楽しみまで禁止しよった。自然淘汰という原則が人間には通用しないらしい。今、私に死なれたら何万人と言う社員とその家族が路頭に迷うことになるらしい。この身体は私のものであって私のものではないって事になるらしい」
 御老人の名前は山藤公一郎と言うのですけれど御存知でしょうか?

     3

 いつかどこかで出逢うことで今までの生き方が変わってしまうと言う運命の糸が張り巡らされていることに、人生の不思議を感じました。あのとき・・・、屈辱と絶望の日々があったからこそ今があると考えますと・・・。愛する人の子供を産み育んではじける笑いの中の夕餉が女にとって本当の幸せなのかも知れない、また、修めた才能で社会に貢献し多くの人から喜んで貰える充実感、次元の違いはありますが、このどちらが女と言う者にとって幸せなのか。考えを巡らすとき、個人と社会と言う枠を越え、個人の中の女としてのものと、社会の中の人間としての生き方の違いが幸せと言う概念をゆるがすのです。これで良かったのかしらとふと、今の私に問い掛けているのです。
 あのとき・・・あなたが・・・いいえ、良かったのです・・・。
 次の年の四月には、私は山藤会長の創設された大学の国際文化比較学部へ通うことになったのでした。
 中央線沿いの八王子に学舎はありました。キャンパスと言う方が今様の表現でしょうか。多摩御陵の近く、自然をそのまま残した中に時代の推移を感じさせる建物が調和のある一つの主張を試みているようでした。陽は木立をかいくぐりスポットライトのように落ち葉を重ねた大地を照らしておりました。地水は清水となって湧き、幾つもの細流となり辺りの樹木を潤すという循環を経た後に小川に溶け込んで行くと言う風でした。    
「自然の中に学び、自然の中に戯れ、自然の中にあって存在せよ」と言うのが、山藤創設者の創立の意でした。
 だから、草木は生えほうだい、人の手など一切入っていない自然が取り巻いておりました。それはまた生物のなりわいを如実に著す場でもありました。自然と言うありようは自然の中にあって自然の美が生まれると言う、このことは自然を我がものにして弄んだ人間には分かっていない事でしょう。日陰の木々は育ちが悪く、だけどその木々は明かりが少なくても成長できると言う特質を持ち、陽を求めて伸びる枝葉は風に脆いと言う厳しさがあるようでした。
「草木もまた生物なり。人間くらいだ、自然になんの恩返しもしていないのは」山藤会長の口癖です。
 あなたのお父様が常々人間の傲慢さを嘆く言葉を口にされていたことを思い出したものでした。
 国際社会において何が一番大切かと言うことを私は学んだのです。文化と言っても、それぞれの国には様々な習慣と生活の違いがあります。それは気候風土と大きく関係していて、何千年と言う年月がそれらを醸成して来たと言う事実を学ぶことによって理解しなくてはその国を語れないのだと言うことを知りました。人間としての理性と悟性は無論持って接していく姿勢が大切だと言うことも知りました。

 あなたと巡り合って、幼い頃思っていた夢が叶う嬉しさに酔っていたあの頃、五年後にこんな考えが出来る私になっていようとは思いもよらなかったことです。あの頃、右も左も分からぬ私が恋と言う夢の中で考えたユートピァは、あなたの我儘を私への愛だと錯覚することで成り立ったものでした。本当の愛と言うのは、お互いが尊敬すると言う心にならなくては生まれないって思えるようになりました。あなたとのことは、初恋だったのでしょうか?お互いが遍く言葉を機関銃のように撃ち合った関係は一体なのだったのでしょうか。東京と倉敷、回線をとおしての心のあり方を話す日々が何ヶ月も続いても、会って何も言わず見つめ合う事にはかなわなかった二人。今つくづくそう思うのです。
 十九の私が四年経って二十三の春無事に卒業することが出来ました。卒業の祝いにと渋谷にマンションを買って下さったのです。在学中に運転免許を取り、山藤会長の運転手兼秘書という生活が始まりました。山藤会長は幾つも会社を持っておられ一ケ月に一度は顔を出すと言う生活をしておられたのです。
「栞さん、あなたはこれから何になりたいと考えですか?」
山藤会長が後部の座席で穏やかに言われました。
「わたしは・・・福祉の事が・・・」
私はそのとき何を言ったか良く覚えていないのです。
「これから必要なことには違いないでしょう。だけど、人間と言うものは一人で生まれて一人で死んでいくものです。それが自然の淘汰の原則でしょう。老い然らばえて生きることの恥辱は自尊心を傷つけ、その傷が生きることの勇気を失わせるとしたら、果たして福祉の充実が年寄りにとって喜ばしいことなのだろうか?」
山藤会長は言葉を膝に落とすように言われました。
「それは・・・」
私はなにも答えることが出来ませんでした。
「あなたは若い、それは素晴らしい事ですよ。これからあなたの前にどのような世界が開けてくるか分からないのですから。あまり遠くを見てはいけません。なにもあなたのような若い人が年寄りのことを考えることはないのですよ。年寄りのことは年寄りに任せておけば良いのです。年寄りは若さがない替わりに生きて培った知恵があります。その知恵を働かさないようだったらどのような手を差し延べたとしても救いがありませんよ。それを人間の連帯的な責任と考える必要はないのです。年寄りの甘え、こうして欲しいああして欲しい、と言う我儘を聞いていたら何時まで経っても自分で老後を生きようとしなくなりますからね」
「それでは」
山藤会長のように何不自由なく暮らせる人なら老後の生活設計は出来るでしょうが、そうでない人は一体どうしろと言うのだろうか?私は考えようとしました。
「年寄りにとって、名誉とか財産があっても屁のつっぱりにもならないって事は、若いあなたには分からないでしょう。それはないよりあった方が何かと便利なことは確かですよ。便利と言うことで幸せを計ることは出来ませんよ。煩わしいだけと言うこともあります。便利さと煩わしさを差し引くとしたら・・・。私も一人の年寄りと何らの違いもなくなるのですよ」
 私が考えを言葉に置き換えて言おうとしたら、山藤会長は私の心を読まれてそう言われたのでした。私は何も言葉がなくただ頬を歪めて前方を眺めるだけでした。
 バックミラーに映る山藤会長の貌は、傾いた陽が上下を分かっていました。顎から喉仏にかけて弛んだ皺が私に何かを語っている様に思われました。
「私が考えといることは、この地球の全体のことなのですよ。緑で美しいこの惑星のユートピァにだんだん文明と言う、ただ人間を怠惰にするアメバーがはびこり、本能を退化させ精神を狂わせ、酔狂の中で自然との協調関係を無視しつつ生きている人間のことが心配なのですよ。もう遅いかも知れない、だけど手を拱いてみているほどの勇気は私にはありません。私は、私の財力で買えるだけの自然を買った。そして、許すかぎり許されるかぎりこれからも買い求めていくつもりです。これ以上、開発によって自然が壊されるのが我慢ならないのです。自然に人間が手を入れる傲岸は許されません。自然のとめどない恵みを懐に生きてきたのが人間です。そして、自然に感謝して生きたのが人間だったのです。祭り一つとっても、今の人間はその意味すら知らなくて神輿を担ぎ山車を牽いています。ただそれが毎年の恒例になっているからに過ぎません。神にしても仏にしても、参る、拝むと言う行為は、純粋に感謝をすると言うものだったのです。感謝即ち誓願だったのですよ。だが、今は誓願のみの人間の催しになってしまっているのです。そんなものじゃあないのです、そんなつまらん人間ではなかったのです。嘗て、この地に足を踏み入れた人達には、太陽を、雨を、風を、樹木を、土地を敬うと言う習慣を持っていたのです。仏教が入って来るまではこの国は神を祭っていましたが、伝来して神仏混合の信仰に変わってゆきました。仏教は元来死者に伴った仕来りが多くあります。死を説きながら生きることの大切さを教えているのが仏陀の悟りです。それには、今世と来世を作ることで今生の生き方、心の有様を語ったのです。
 だが、今はそんな生き方死後の世界がどうであろうと関係ない人間が余りにも多過ぎます。神は最早や死んでいてなんの効力も発揮しません。傲慢な人間を戒める何物もいない状態なのです、これは本当に悲しまなければならない現象なのです。敬うべき何かが今の世に必要なのです。恐れるべき事実が必要なのです」
「それが、地球の汚染だと言われますのですか?」
「そうです。ここで初めて人間の真価が問われるのです。このまま突き進んで滅びるか、悔い改め自然を、その摂理を受け入れて共に共存していくか。便利さを取るか、不自由さを取るか・・・。あなたは何を青臭いことを考えているのかと言うかも知れませんがね、私のようにこうして歳を取ると、どうなっても知るものかと言う心と、次の世代にこのままの地球を残す事への罪悪感が生まれ二つの心が争うのですよ。私は企業を大きくするために見えないところで考えに反することをしていたかも知れません。だから余計に心が痛むのかも知れません」
「会長は、この私に何をお望みなのですか?」
「土地を独り占めするとか、住宅地の遊休地を開放しろとか、家を持たぬ人間達が騒いでいるようだが、それは資本主義に反することだ。欲しければ自分のものにすれば良い、買えば良いのだ。民主主義と言うのは平等を原則にはしていないのだ。何も土地付きの家に住むことが目的だけではあるまい。土地付きの家が本当に欲しいのなら、地方に引っ越し購えばいいのだ。何も人が保有する土地にけちを付けることはないのだ。東京には居たい、土地付きの家が欲しい、それはないものねだりの子供と同じだ。犠牲という我慢があってこそ欲しい物が手に入ると言うことを知らぬ輩が、地球をこんなに汚れた星にしたのだ」            
山藤会長は顔を紅潮させて口早に言いました。それはまるで怒っているようでした。

 私は・・・あなたにはもうお気付きのことと思います。日本はおろか各国の自然を訪ねて、その自然を買い求める仕事に付いたのです。

岡山から夜逃げ同様にして父と母の故郷へ引っ越したのは、私が中学三年の二月でした。高校受験を控えて私の心は動揺しておりました。英語と数学は近くの塾へ通い少しは偏差値を上げておりましたが、希望高へは少したらないのが気になっているときでもありました。それよりも何よりも、あなたがいる倉敷を離れることの淋しさは私の小さな胸をゆるがせるものでした。逢っても何も言えなかった幼い心の中にあなたの面影は大きく位置を占めていたのでした。それが本当に分かったのは、高校に入学してほっと一息ついたときでした。学生服の男子生徒を見ると、あなたも同じ格好をしているのだと言う思いで、ついつい見ていることにしばしば戸惑ったものでした。

     4

 鹿児島県と宮崎県の県境のその町は、自然がいっぱいと言うところでした。私は、父の失敗をむしろ喜んだものでした。だけど、あなたとの距離が出来たことがより辛い慕情を募らせたのです。
「きっと私は、もう一度倉敷の地を踏む。その時の為に恥ずかしくない様に勉強をしておこう。良く頑張ったと思って貰えるように汚れのない精神で生きていこう。貧しくても心まで貧しくしないようにしょう。私はあの人の妻になるのだから」
 そう思って生きていく道程はそんなに落ち込みもしない、毎日でした。
 借屋の私の六畳の部屋から、高千穂連峰が朝靄の中にくっきりと見え、日本の創世期を頭の中に描くのが楽しみでもありました。あなたが歴史を得意とすると聞いて、私も一生懸命に好きになろうと頑張った甲斐があって、高千穂の伝説を思い出し描いたものでした。何もない所でしたが、寧ろその方が救われるのでした。のんびりとした高校生活を送ることが出来ました。貧しい本当に何もない生活でしたが、倉敷の立派な家に漂っていた喧騒な空気に比べ父も母も落ち着いた心の在り方を見せてくれましたから。
 一度だけ、あなたに良く似ていた同級生と鹿児島へ旅行に行ったことがありました。だけど、幾ら似ていると言ってもあなたではあり得ないわけですから、付き合えば付き合うほど心が空しくなり、あなたを恋しい気持ちが一層に募りました。
 私がドジで塾に行っていて自転車を盗まれたときも、古いものならあるからと言って届けてくれたのに、有難うと言えなかった私をさぞ礼儀知らずの可愛げのないやつだと思われたことでしょう。がうれしくうれしくてあなたに会えたと言う嬉しさに心が傾き過ぎてゆき言葉が出ませんでした。あのころ、あなたのお嫁さんになろう、あなたにそっくりの子供を沢山産んで、公園や野山を笑いながら泣きながらはしゃぎながら走ったり転んだりしたらどれほど楽しいことだろうなんて、ベッドの中で考えていて一晩中寝付けなかったことが多かったのです。おませな私だったのでしょうか、それとも乙女の感傷だったのでしょうか?こちらに来ても良くそんな妄想に囚われては腫れぼったい目をして授業を受けては先生に叱られたものでした。だけどそれは楽しいのでした。夢が現実の物となって行くようで・・・。何もない長閑かな田舎であったからかも知れません。沢山の夢を私の胸に芽生えさせてくれたのです。消息のないままの三年間、あなたに毎日毎日手紙を書いておりました。心の在り様を、四季の移り変わりを手紙に託し、あなたに出した数えられないほどの便りは届いたでしょうか。一つ気掛かりはあなたに素敵な恋人が出来ているのではないかと言う不安でした。でも、私には自信がありました。あなたを私に振り向かせる自信が。この汚れない心と身体でした。あなたを想う事にかけては誰にも負けないと言う自負心でした。あなたがどのような人間に成長していても、誰にも負けない愛で、包みこんであげられる大きな愛がありましたもの。阿蘇の雄大さ、高千穂の霊幻さを兼ね併せて持っていましたの。
 高校を卒業して、倉敷に就職をしようかと考えましたが、何だか怖くて学校の進めで東京に職を求めました。妹がいることはあなたもご存じだったでしょう。学費を送ってやらなくてはならなかった関係で、少しでも条件の良いところを選んだのです。
 その年の夏、私はあなたの前に四年ぶりに現れたのです。何と言う蛮勇でしょう。あの時ただただ会いたくていてもたってもおられなくて新幹線を岡山で降りたのでした。
「中学時代の友達の結婚式に呼ばれてきたので、おじさんやおばさんのお元気な顔が見たくてよりましたの」
 なんということでしょう。あなたに会いたくて嘘をついたのです。恋をすると上手に嘘をつくことができることを知りました。
 あなたは少しはにかんで迎えてくれました。
「時間があったら倉敷を案内して下さいません」
 そんな厚かましい言葉をすらすらと投げかけていたのです。恋する乙女は完全に演技力のある役者になれるのです。
 驚きました。四年の年月が倉敷を変えていたのです。見るものがすべて新しい、私がいたころとおおきく様変わりをしていたのです。倉敷駅の北にあった紡績工場の跡地にチボリ公園ができて、駅前はきれいに整備されていて、新しいビルが立ち並び、それと対照に江戸情緒を残す美観地区は隔離されている空間を作っていたのです。
 あなたは素つけない態度で私を案内してくれました。私はただ同じように歩けるうれしさで胸が高鳴っていたのです。目に映るものすべてが新鮮に見えたのです。
 仕事の関係で夕方の新幹線に乗るまでにいろいろとお話ができたこと、まだ彼女はいないこと、それだけ聞けば外の事は話の端でしかなかったのです。
 それから数カ月、長距離電話で色々と語りあいましたね。まるで四年間の時の隔たりをなくするように。
電話代が大変だろうとおじさまがテレホンカードを何枚も送ってくださいました。
 あなたが東京に遊びに来ると言った時には飛び上がって喜んだのです。ハトバスに揺られながら二人の未来図を書いていました。生きているうれしさと、あなたに会えた喜びで本当に幸せな一日でした。
 何もなくあなたが帰られてまた電話のみの交際が始まりました。
 今度は私が倉敷へ、ただあなたに会いたくて訪れるという、その時すべてを与えてもいいという覚悟をしてのものでした。 
 そのことが二人を引き離す事になろうとは・・・。
「よく来たね」と言って抱きしめてくれると思っていた私は、素っ気ないあなたの態度にむかついて黙ってしまったのです。その溝は遠距離恋愛という架空の出来事を現実のものにする難しさを物語っていたのです。

    5

自然を買いそれを放置すると言うことは、自然を維持できないと言う矛盾があることに気づく事になるのですが・・・。        自然は密林を維持するために森林火災を起こすのです。老木や朽木をきれいにし新しい新芽を求めるのです。風や雪や雨に寄って倒れた木々はやがて土に還るのですが、その時大量の二酸化炭素を排出するという結果をもたらすのです。自然に倒れた木はやはり人の手で始末をしてやらないと駄目なのです。木と木の間隔をとるために伐採することですべての木に陽が当たり育つのです。木々の旺盛な生命力は成長過程では二酸化炭素を吸収し酸素を放出してくれるのですが、老木に成ると酸素を吸い二酸化炭素をはき出すという正反対の行いをするのです。そのことは山を歩く内に勉強したことなのです。
自然を破壊する人間の傲慢さは許されませんが、自然を放置する無責任も許されない事なのだと言うことが分かったのです。
私は一体何をしているのか、悩みの中で考えていました。
今、日本の森林は材木の海外からの輸入材木の値段が安いと言うことで、伐採されることもなく放置されているところが多いのです。
そのような思いを山藤会長に話しました。
「自然に逆らうことは許されるとは思われない。私が望むのはこの地球が生成されてこれまでに営んでいた生態系を残したいのだ。大きく育てるためには木の伐採も必要だろう、が、その生存競争に人間が手を貸してもいいのだろうかと考える。人間の都合のいいように作り変えることの大罪を許していいものかとも思える。太陽を欲しがる木々もいる、が、その光がなくても育つ木々もある。自然はすべての営みに進化というチャンスを与えていることを忘れてはならない。この人間だって、自然がもたらす災害や寒冷化、温暖化によって絶滅なども経験し、その都度進化して、それを乗り切って今があることを忘れてはならない。人はピンチの時に成長し進化するものだ。私が創設した大学を見てきただろう。自然に任せて一切人の手を加えていない、可哀そうだとか、美しくないとか、そういう人もいるがそれは主観の違いなのだ。自然の過酷な状況の中でそのバランスをとって自然は成り立っていることを見ない人の言葉だ。私は植物のことばかりを言っているのではなく、そこで生存する大小の動物についても、放置された自然の中が一番生きやすいということもあると言いたいのだ。人の手が入るとそこを生活の場としていたそれらの動物は行き場がなくなってしまうことを恐れているのだ。君の思いは間違っているとは言えない、が、自然の采配に任せようではないか、いずれそこに時が経てば歴然とした答えを出してくれるだろう。君は今まで通りの仕事をしていてほしい。あとは私が解決をする。いつまで生きておられるかはわからないが、この仕事は砂漠の中に光を投げる灯台のようなもので、それを必要とする人たちには希望の光ともなろう」
会長はそのようにおっしゃられたのです。
砂漠の中の灯台、必要としている人に希望という明りを、航路の指針を指し示す、その手伝いをしていたのだと気づかされたのでした。
 人が生きるということはその灯台を探し求めることなのではないのか、自然という砂漠の中に分け入って右も左もわからなくなったときに灯台からの一筋の明かりによって、事故もなく難破もしなくて行き着くところへ向かえるという。
 今私は大きな愛に向かって進んでいることを自覚したのです。
 あなたにもらったひと時の激しい心の起伏があればこそ今の私があることに感謝するのです。
 マンションのガラス窓の外にはたくさんの営みの光が乱舞しています。みんなその光の中でなお光を求めているのが現実なのです。日蔭の木々のように何の不平も言わずに自らの生き方を変えて育つ、その進化を会長は美しいと眺めているのでしょう。
 あなたのお父様はどのようにお考えなのでしょうか、一度お会いしてお話を窺ってみたいとも考えています。
 一度、近いうちに倉敷にゆきます。

 日本の国土は七十パーセントが山なのです。その山並みのおかげで世界一の水量に恵まれているのです。日本がまれに栄える文化を維持できたのも雨の恵みを集めて流れるたくさんの川があるからなのです。山に降った雨は山肌を下り、また、しみこんで地水となってその川に溶け込んで周辺の大地に恵みを与えて海に下るのです。そこに生息するたくさんの魚たちにとっての栄養素が含まれていて成長を促すのです。岡山は山海珍味の豊富なところです。そんなところで十五歳まで育ったことを貴重な体験として感じているのです。
 私は岡山県北の美作を訪ねるときに、おじさまにお話を聞いていただきアドバイスをお願いしたいと申し出たのです。おじさまは快く承諾してくださいました。
 新幹線を岡山で降り、レンタカーで美作に向かいました。吉井川沿いを登るのです。川幅はだんだんと狭くなり山と山の間をくぐるように走りました。気温も少しずつ下がっているのでしょうか、肌寒く感じられました。すっかり紅葉してその回廊の中を走らせたのです。美作市役所の方に紹介していただいて山の地権者に会うことにしていたのです。
「そのままで放置なさるというのですか」
 地権者の方は訝しげにそう申しました。
 私は山藤会長の言葉を伝えたあとにそう言いました。
「ですが、それでは周囲の方に迷惑になります、買っていただくのなら責任を持って間引きや伐採、それに清掃もやってもらわなくては・・・」
「周囲の方にはご迷惑をかけることはいたしません」
「と言われても・・・」
「買わせていただけるのなら、その山の管理を引き受けていただけませんか、それ相当の謝礼はいたす用意はあります」
 私は事務的に話を運んでいきます。これも今までたくさんの山を買い取った経験から出たものでした。
「そこまでいってくださるのなら・・・」
「はい、私たちはこの山で何かをして儲けようという考えはありません。そのような計画も目的も持っていません。ただ、今のような無計画な開発の手から国土を守りたいという、悲願ゆえの行為と受け止めて頂ければありがたいのです」
「その趣旨は分かりますが、何もせずにそのまま・・・なんと贅沢な考えなのでしょうか。日本の山持ちはみなもてあましているのが現状ですから、手放す人も多いし、そのように思ってくださる人がおられることは大助かりではありますが…」
「何も心配をおかけすることはないと思います。どうか私たちにお譲りくださいませんか。人間が人間の為に植林したものは自然には耐えられず野生としては育ちません。人間が最後まで手を入れなくてはならないと思っております」
 私は会長に言われて不動産鑑定士、宅地取引主任の免許を取らされているのです。
 このままの状態が続くと日本から緑がなくなるという恐怖を感じていたのは確かなのです。緑なす山並みが続き、苔むす水のあふれるせせらぎ、四季の変化に様々に顔を変える自然の営みを保持したいというのが会長の、そして私の思いでした。
 
「話しはついたのですね」
 おじさまはゆったりとした口調で話しかけてこられました。
 おじさまは湯郷温泉の宿で待っていて下さったのです。約束を守ってくださいました。そして、このことはあなたには内緒ということでした。
 おじさまは銀座のマリオンの前で偶然お会いした時よりおやせになっておられました。柔和な顔の中のひとみは穏やかな光を持っておられました。精神的にも充実された生活をされておられることがそこにあふれておられたのです。
「はい、滞りなく契約を済ませました」
 私は短く答えました。
「それはよかった」
「今日はお忙しいところを、私の我儘にお付き合いくださいましてありがとうございます」
「いやいや、私もしおりさんと話がしたかったのです。成長された姿を見たかったのです」
 おじさまは目線をはずして窓から見える紅葉した山並みを眺められながらそうおっしゃった。少しの間色々な話をいたしました。その殆どがアドバイスをいただくための説明になっていました。つまり、山藤会長のお考えになる砂漠の灯台についてでした。
「陽が落ちるのが早くなりました」
 おじさまはぽつりと言葉を落とされたのです。そして、
「この日本の国土を保全するために山を買っておられるのですね。今、全国のゴルフ場の面積は千葉県と同じだと聞いていますが」
 少し語気を弱めて苦悩するように言われました。
「はい、今はそれ以上かと思われます」
「それは本当だったのですね」
「はい、休耕田も問題なのです。田や畑の放棄、山の管理や手入れまで出来る状態ではないことは確かです。そのために内密に動いているのです」
 私は少し高い声で申しました。
「日本の住宅環境の変化で日本の材木が使われなり安い輸入材で賄われている。山持ちは三十町歩あればぜいたくに暮らせるという神話は崩れてしまった。毎年一町歩材木にして出せば贅沢ではなく十分に暮らせた。そのあとに植林をする、それが成木になるのに三十年間かかる。その繰り返しで山を維持して生活の糧を得ていた。だが、今は斬り出しても需要がない、高くなりすぎているのか、昔のようないい材木ができなくなっているのか。収入が少なくなると管理がおろそかになる、その循環が疲弊のもとになる。
自然を人間の手で管理することは難しくなっている。
この問題は国家の政策が必要なことでしょう。国土をどのように保全するのか、ダムをいたるところに作り水力発電をして初めて日本の経済は発展した、下流にあった肥沃の大地から豊穣をもたらした恵みを犠牲にした。それは、その裏で自然破壊は進行し、取り残され失う事に対しての政策を怠ったという事だった。
今、そのために心痛めておられる一人の方がいる、いや、何人かのプロジェクトが作られている。そのように理解をすればいいのでしょうか」
 おじさまはそうおっしゃられて口にお茶を運ばれました。
「はい、そのようにご理解いただいても構いません。私たちは自然を残す、その自然こそが日本国なのだという考えなのです。ですが、今、自然は人間の都合のいいように開発され、運営がうまくいかなかったら放棄されています。農業補償によってたくさんの休耕田が増え続けています。林業は最早産業でなくなっています。それでは水源が枯れる恐れがあります。そのことにも心痛めています」
「人間が自然を崇拝していた時には・・・今はそのありがたさも忘却している。古代からつい百年前まで人の手などついぞ入れたことがなかった。必要に応じて木を切りだしていた。切り出したものをいかだに組んで川を下って運んだ。それは、森林があることによって魚の収穫にも影響したからだ。漁民はその収穫のために山に木を植えている。海の民が山を、それが自然の摂理、誰に教わるでもなく伝承された知恵だった。今は何もかもが壊れているように思われる」
「だから・・・」
「何もかも人間の都合で自然をひん曲げてきた、そのつけが・・・」
「はい、全国各地を回っていますと何も植えられていない山が山肌をあらわにして存在するのです。それらの山を買い取り植林しています」
「そんなことをしなくても風が木々の種を運んできて、そこに芽が出て、山々は木々に覆われるのです。その摂理を大切にすることが自然を守るということにはならないだろうか」
「それはわかっております、が、それを放置すると洪水になる恐れがありますから、自然の恢復の前に人の手を入れることになります」
「防災のためにコンクリートの・・・。愚かと言うしかない。また、太陽光、風力、水力などのエコ化によるエネルギー開発が環境をより早く壊滅に向かわせている現実、その錯覚に日本人は気がついていない。それを地球温暖化と言う虚構の上に創り上げようとする無神経な感覚には・・・。この国の科学者や専門家たちは何をしているのか・・・」
おじさまはハイテンションに語られて窓の外へ視線を移されました。
「山藤会長も同じお考えなのです」
「言ってみれば、この国に哲学も文学もないという事になる。世界の、いや、日本のこれからのあり方を考えようとしないと言う事になる。太陽光パネルが設置された土地は死ぬだろう、風力発電の風車により木々は枯れ木が増えるだろう、水力のダムにより下流の生態系は壊滅するだろう。それよりなによりそこに住む動物の絶滅が心配だ、作物も実りをもたらさなくなるだろう…。これらのまやかしはこの国のマスコミの報道が国民を動かしている事になる…。一度吐いた言葉を誤りと気づいても訂正しないその姿勢が国民を混迷へといざなっている…。これは、先の大戦の時に新聞が国民を洗脳し煽り政府に戦争をするように仕向けたときのように・・・」
おじさまは窓の外に何かを見つめるようにして言われたのです。小さな背中が震えていました。それは怒りであったのでしょう。
「私はまず国に最も大切な物は国土と言う考えを会長から教えられています」
「その通りです。その事を国民はないがしろにし過ぎています。金、欲心が先走り過ぎているのです…」
おじさまの顔には怒りゆえの苦渋が現われておられました。
自然をそのままにして自然の再生に任せると言う事を強く強調されておられたのです。その考えは私も良く理解できたことなので反論する事もありませんでした。
自然のあり方は自然に任せる、それはこの地球が生まれた時より永劫に繰り返された再生のシステムである事は知っていました。
二酸化炭素がなくては地球上の動植物が死滅する、なのになぜそれを削減するのか。地球温暖化の偽りがまだまかり通る事に対しての腹立たしさは、自然と人間の共生に携わるものとしては受け入れることのできないものでした。
おじさまは直接その事を申されませんが、その事も含めて自然に対する非常に強い愛着を感じずにはおられませんでした。
人間を支配している物欲に対しての警鐘を説いておられるのでした。
「いまの時代をどのような時期と考えているのですか…」
おじさまは言葉を畳の上に落とされました。少しの時の流れの後でした。
「二つ、考えられると思います。温暖化、寒冷化でしょうか・・・」
「いまの時代は氷河期へ向かったと言う人もいます。私もその言葉には賛成なのです」
「そうですか、氷河期なのですか」
私は何かで殴られた様な感覚でした。寒冷化を通り過ぎて氷河期と言う表現に戸惑っていました。
「人間は、もっと科学を学ばなくては、この地球に生息する権利はない。私は科学者ではないがその事に大変に興味があります」
私はその続きを心待ちにして、
「続きをお聞きしたいです…」と返しました。
「ダウインの進化論、ガリレオの地動説、それらは一つの人間社会への挑戦だった。非難され受け入れられなかった。が、今では理解を深めている。科学は現実をも説きながら未来を指し示すものだから、人間社会には必要な事なのです」
「自然との共生の乱れが人間社会に及ぼす事の重大さをそれに例えておられるのでしょうか…」
おじさまは少し貌をやわらげられて、その貌は笑ってはにかんでおられるようでした。
「植物は二酸化炭素を吸収し光交合をして酸素を吐き出す、それによって大きく育ち花を咲かせ実をつけ種を作り、風に飛ばされ動物に食べられる事で繁殖します。動物は子をなして永遠を作ります。それが、子孫を残すと言う事が死しても生きていることにつながる事なのです。長い道のりが続くことなのです、だが、それを今の人間は変えてしまおうとしている、自然の一員である事を忘れて都合のいい自然を作ろうと…全く愚かと言うしかない・・・」
「その事に歯止めをかけるための一つとして・・・」
「遅いかも知れない・・・」
私はおじさまに視線を貼り付けていました。
「おそいのでしょうか・・・」
「いや、これからでも間に合うかも知れない・・・。幾度も地球上の動植物は絶滅の危機にさらされて、その時に進化してきた。人間はまだ進化の途上です、どのように進化しようとしているのでしょうか…」
おじさまの苦悩ははっきりと伝わっていました。山藤会長にぜひ会ってほしいと思いました。

このような話は面白くもおかしくもなく興味がありますか。あなたのお父様の言葉に私は昂奮していました。
美作の風は緑を濃くして流れていました。心地よい柔らかな風でした。それは漆黒の闇から放たれたものでした。自然の営みのなかで行われていたのです。
おじさまは生きると言う意味を訥々と語られておられたのです。
命をつなぐことにより自然の総ての生き物は生き続ける事を、それを地球も欲している事を伝えようとされていたのです。

     6

 美作でおじさまとお会いして早や半年が過ぎ様としております。その間に山藤会長と何度も話し合いました。それは近隣の山の持ち主に被害が及ばないように考えると言う事で自然を放置する、つまり自然の自らの再生に任せる勇気を持とうと言う事でした。
 おじさまの考えを山藤会長も理解し賛同してくださいました。
 それに自然エネルギーの事も考えなくてはならないと言う結論に達したのです。自然エネルギーによる自然破壊を社会に訴える事を検討材料にしてそのデーターを集めることになったのです。
 すっかり今の生活が身について、他の事が考えられなくなっていました。
「女性としての貴重な時間を使わせて申し訳なく思っている。男と違い女性の一年一年は貴重な時間だ。思う人はいないのかね」
 山藤会長が突然投げかけた言葉でした。
「おりました、が、今はいません。この仕事が私にはあっているように思えるのです。だから、全力で脇目もふらずに取り組んでいたいのです」
 私はその様な言葉を前に突き出していました。それは心に残る蟠りを拭うものでもありました。緊張して今の現実に立ち向かう姿勢を作ることで精神を立て直したいと言う事であったかも知れません。
「君のような若い女性に、こんな仕事をさせて…。女性としての幸せを・・・」
 山藤会長は少しくぐもった声でした。
「いいえ、私がしている事が正しく将来を生きる人のためになるのならば、私は決して干からびません」
 強く言い切りました。
 あの頃の私ではない事を私に言い聞かせるものでした。強がりなのか悔しさなのか、もあるかも知れませんね。
 高校生の頃、高千穂連峰を眺めながら描いた将来の夢を今の仕事に繋げて情熱を持つことにしたのです。
「可能さんと言われたかな、人間は結婚して子をなすことで生き続ける事…」
「それも理解しています。だけど人間の環境が整備されなくてはそれも続かない事だと思うのです」
「その通りだ、人間も自然の一因だとして、男女が子なす事がこれもまた自然の営みなのではないのかね。私はその自然を大切に思うから自然を守りたいという願いを持った」
「おじさまもそのように御考えだと思います。子を産み育てることが昔から続いた自然の営み、その事は知っております、けれど、私はこの人だけと言う人に巡りあわなくては、それも自然の営みの中に組み込まれているのではないかと思っています」
 これは女のせつない感情だと言う事は十分知ってのことでした。
 あなたの子供を生んで平凡だけれど素直に生きて育てたいと言う思いを胸に膨らませていた頃の夢を未だ断ち切っていなかったという事でしょうか。
「可能さんに逢ってみたくなった・・・」
 山藤会長は言葉を膝に落とされました。
「私も逢っていただきとうございます、その事を何度かお願いしようかと思っていました」
「私が出向こう。また、君をこのように情熱的に変えた人にも会ってみたい」
「おじさまですか・・・」
「いや、君の心に棲む人にも・・・」
「なぜ、そのことが・・・」
「私は、なぜ君がそんなに情熱的に仕事が出来るのかを考えてみた。人間は愛がなくては生きられないと同じように、なくした愛でも生きられるという事をこの年になればわかるものだ」
すっかりと見破られていました。

 もう、東京に生まれて育ったようにこの町の人になっています。だけど、街並みの開発の早さにはやはりついていけませんが…。
 時の流れがまるで川の流れのように速いのは私が歳を取っているという事なのでしょうか。子供のころはいくら遊んでも穏やかな日差しが残っていて包み込んでくれていましたから長く感じたのでしょうか。
 私が初めて就職で上京した時には上野の森には桜が満開でした。だけど、今は桜も見る事が出来ないほど忙しく立ちふるまっています。あの頃が幸せだったと言えるのか、今が充実していると言えるのか、生きる場所と時間で変わる事を知りました。
でも、心にそっと偲ばせているのは燃え尽きることのない想いなのだとつくづく感じます。あらゆる原動のもとはそこにある事を秘めているのも確かなのです。
 ときどき、バックミュージックに魅かれ喫茶店に入ります。そこはアンテックな内装のなかにも落ち着いた雰囲気を醸している落ち着ける場所なのです。気がつきましたか、そう、流れるのはモーツアルトなのです。最近仕事の合間を縫ってここによく来るのです。
 あの頃の事を思い出すと言うのではなく、新しい私を作ることのためにです。旋律は色々の風景を心に蘇らせてくれます。高千穂の峰を見ながら思った激しくも穏やかな生活などの懐かしいことから、また、後楽園のドームの傍で飲んだ温かいコーヒーの味とか、新幹線の窓を流れる景色のなかで冷めた紅茶を一人で飲んだ事とか、人の手が入っていない原生林を前にして茫然と立ちつくした時とか、渋谷の雑踏の中で足早に行きかう人の波のなかで佇み溜息をついた時とか。それられ想いのなかに翻弄される事が私のストレスを解きほぐすことになっているのです。
 今日は競馬場へ行ってきました。ただ茫然と眺めていただけ、一見無駄なような行動が次へのステップになるからなのです。
 確か、いいえ、お忘れください。
 思うのです。
 私の心に出会う事で灯った明りは、いかなる状況も困難も乗り越えることのできる力をくださいました。
 それは荒涼とした砂漠の中の燈台のように生きる目的を指し示してくれました。

 このような長い手紙を、届かない想いをつづりながら明日に向かって歩むことにいたします。

     7

 こうして、あなたへの手紙をしたためています。これは私の心を常に油断のない緊張感をたもたせることに通じるのです。それは砂漠に迷い存在を指し示してくれる燈台の明かりの様なものとしてお考えください。
成就する想いと同じように成就しない想いも日々の暮らしにとって頼りになり力になると言う事だと思うのです。
私は不遜にも燈台になろうとは思っておりません。遠くを照らす明かりの下でその明りを見つめることで十分に満足をしています。
 湾岸の光のまたたきの見える部屋から何を思っているのでしょうか。美しい、いいえ、自然の美の前では人間がどのような手管を使っても超えられない事を、自然にふれあい眺め心に蓄えた者としてはかなわないと言うことを知っております。それは人間の美意識、心に存在はしても決して表現のできないものだと言う事を感じるのです。
 人間の不安定な心がむしろ色々なものを生みだしている、また、それがなくては生きられない事を証明しているのだとも思えます。
 愛すると言う不確かな感情は捕まえ縛る事は出来ないものなのでしょう。忘れなくてはならないその思いは繰り返し感じても心はそこに常に存在する、言ってみれば厄介なものなのです。また、それが生きる上で最も必要で時に感じてはその思いに引きずられていてそのなかで遊ぶという事もあるのです。
 想いとは大切な道標なのかも知れません。
 この前の手紙、書いたのですけれど投函はできませんでした。この手紙もまた書くだけで終わるのかも知れません。
 私の心には飛躍しようとする想いとあの高千穂の雄大さに魅かれて眺めときめいていた思いが、今でも時に交錯しています。

 山藤会長のお考えを実行する上で気づいたのですが、自然を保全する事は総ての動植物に対してのせつないほどの愛情がなくてはならないと言う事なのでした。
 自然との関わりの中で総ての生きとし生けるものが享受できるのは、偏に自然の営みのなかであることなのだと言う事が分かりました。
 おじさまはその事を深く理解されておいでで、互いの共生をお考えになられておられる事は理解を深める上で私を成長させてくださいました。
 このような話は面白くありませんか、興味がありませんか…。
 そんな自然との関わりによって忙殺している人生のなかで、あなたに出会えたことの大切さをありがたいと思えるのです。それが始まり終わったこととしても、心に潤いの火をともしてくれたことに感謝している日々でもあります。私自身の事ではなく、あなたによって灯された光は消えることのない幻の炎として消える事はないでしょう。また、そのことによって後悔と言う思いもなく燃やし続けられる事を実感しております。
 いいえ、あなたを責めているのではありません。あなたとの出会いがあり、色々と将来を語り合い、沢山の夢のなかに生きた事が例え二人の道が違う事になったとしても、私を、新しい自分を作り世の中の事を思い考える道標につながっているのです。今の生き方の根底にあるのはあなたとの出会いであった事が今を作っているという奇跡を感じているのです。
 不思議です。何かの困難に遭遇した時に、
「人生こうでなくては面白くない」と開き直る事が出来るのはあなたの存在があるからなのです。
 この考えはあの時、あの帰りの時に心の中に生まれたものだったのです。
 新幹線のレールの単調な響きが沈んだ心を包み込んでくれて、まるで心臓の鼓動のように受け止められた事でした。その音が続く限り人は生き続けなくてはならない定めにある事を感じたのです。
 そう、開き直ることのできる強さを持つことが出来たのです。

 今、東京は静かに雨が白い糸を引くように降りています。こんな日は心が癒され落ち着くのです。眼下には灯を広げた大都会がまるで海のようにひろがって見えます。人の様々な思いに彩られて営まれている都会のひしめきは、もう私自身の中にも同化しているのです。
みんな精いっぱいに生きている、生きようとしている、何を求め何に縋り心の闇を照らそうとしているのか、私にはおぼろげながら分かるようになっています。ひとかけらの忘れ難い想い、その思いに左右されながら不確かな存在を手のなかに入れようとしてもがいているのかも知れません。
 孤独、いいえそうではなく、一人の時のなかでもの思う時間を持つ事が出来る事の幸せを感じているのです。それは無限に広がり空想と妄想の世界で遊ぶことが出来るのです。
 高校生のころ、一人で高千穂の峰に登った事があります。そのころは古代の説話など理解していませんでしたが、何か異様な空気に包まれて金縛りにあったように感じたのです。こころのなかに諄々と満たしてくる不思議な思い、誕生があり営々と続いてきた血と命、その道のりで対峙した事どもによって今ある事を感じたのです。まさにこれを降臨と言うのでしょうか、強く生きる事を自然の中に感じたひと時でした。それが運命として約束されたようにも感じたのです。
 その時、私は出会いと言う事を生きる支えにしようと思ったのです。それが例えどの様な結果をもたらそうとも決してその出会いを否定しなくて心に一生おいて生きようと誓ったのです。
 あなたとの事も私の人生の中で希少な出会いとして常にしまっています。それが生きる未来を切り開いてくれていると実感しています。苦しい時辛い時、あの時の事を思い出すと乗り越えられる起爆となっているからなのです。
 窓ガラスの向こうのロケーションがぼんやりとしています。少し雨脚が強くなったようです。
 ああ、明日、おじさまとお会いすることになっているのです。山藤会長と三人で築地の料亭でこれからの日本について語りあうと言う事でお願い致しました。
 楽しみです。どのようなお話が飛び出し聞く事が出来るのか、そう思うと穏やかな心では居られないのです。
 少しワインを口にしてと思っています。最近アルコールをたしなむ事が多くなりました。ストレスの解消、いいえ、時に何かにより今の考えを傍に置く事を考えているのです。

そう言えばおじさまは、今は何もかもお辞めなっておられるのですね。
この前、「あそびにんになりました」 とおっしゃっておられました。なんだか清々としているようでお若くなられているように見えましたが…。
「社会のしがらみから解放されて今生きている事を痛感しています。
人は必要としてくれている時に生きている実感を持つものですが、ぼんやりと過ごし少しずつ身辺の整理をすることも必要だと思う。人と疎遠になる事は命を削ることなのかも知れないがそれが人間の本能なのかも知れない。動物としての生態は子に繋げた血が永久に続く事で死してもなお生き続ける。人間もそのように生きなくてはならないと思う。それが自然の摂理と言うものかも知れない。自然の営みのなかで人間だけがその事から離脱し自然と共生、いや一体になる事をないがしろにしてきた。それはどうなのだろう。許されることなのだろうか。あのとき、総てを捨てた時に何か不思議な現象を見たように思えた。今まで見えなかったものが見えるようになった。
 昔、古代から続いている人間の原理を垣間見たように思えた。今の人間は長く生きても昔の人達が短命であった時に感じていた事に及ばないものに対しての考え方が劣っている。その事を深く考えたいと思っている。それがこれから生きていく問題になるとも思える」

おじさまはそのように自戒の言葉を述べられたのです。それは人間に対する挑戦でもあると思ったものでした。
私の仕事への援護の意味もあったのでしょうか。
 様々な想いを受け止めて少しはものが見えるようになったのは確かです。
 たとえば深い悲しみは人をより強く生きる力を与えてくれる…。
 
あのビルに灯る光の強さは本当に強いものなのかと、本当は柔らかなものなのではないのかとか、夜の海を渡るポートの明かりはどうなのか、見るものすべてが未知のものでそれを考え知ろうとする好奇心が芽生えている事が生きている事の証の様にも思えるのです。
 何を言おうとしているのでしょう、もっとかわいい事を書けばいいのにと思っておられる事でしょう。
 この強がりと屁理屈ともとれる言葉の遊びが私の今の生き方であり、自然を自然に帰すことにつながる事なのです。それには自分を解放する事が必要な事なのでお許しください。
 そう言えばおじさまは、倉敷はきれいすぎるとおっしゃっておられました。そこに人が住むと汚れるものだと、その汚れが人間を正常な精神に育てるのだと、雨や風に叩かれる、その風景の中で人間も叩かれなくては軟になると、それらは自然の浄化のなかでよみがえるものだと、人間もその浄化を尊ぶべきだと。
 教えられることが沢山で尽きない話を何時までも聞いていたいと思うほどでした。
 今の私には明日することが待っている、それはとても大切なことで何か新しい事がと胸を弾ませます。だから眠ることが出来る事の喜びを感謝しています。

     8

 おじさまと山藤会長の話し合いは、まるで旧知の間柄のような雰囲気で行われていました。お二人とも物の考え方、自然と人間の関係、等非常に共通していて和んだ中で進んで行きました。
 結果としては、大和の心、武士魂、民族の血脈にまで及んでいました。それを一言でいえば、
『死生観』と言う事になるのでしょうか。
 文学も哲学も今の日本にはない、その事が不幸だと言う意見で一致していました。また、自然と人間は共生するのではなく一体でなくてはならないと言う、おじさまの考えに山藤会長はいたく納得をされていました。
 お飲みにならないおじさまの前で、
「無遠慮はお許し願いたい。少しお酒を頂く事を・・・」
と、断って杯を傾けられました。
「不調法をご容赦願います」
 山藤会長は杯を何度も運ばれておられました。
「今日の酒は誠に美味しい・・・」
 その言葉が今日の会談を喜ばれている証しでした。
「今でも書いておられるのですか」と、山藤会長が問う。
「いいえ、何物にも拘束も約束もない遊び人です」
 おじ様は少し恥じらうように言われます。
「それは羨ましい、自由、それが人間にとっての最高の至福なのでしょうね」
「さて、欲望には際限がありませんから」
「それ以上何を望まれるのですか」
「・・・この国の未来、世界の人達の平和と言えば不遜なのかも知れません」
「いいではありませんか、望みは高いほどいい…」
「私は、植物の総てに動物に対しての毒性を持っているという事に関心があるのです。人間もその毒を薬に変えなくてはならないように思うのです」
「そこへですか、種の保存と言う事ですか」
「毒になり薬になってこの国を・・・」
「そこまで・・・」
「政治の事も経済の事も私には無縁として生きてきました。ただ、古代から脈脈と続いた人類の血を。次の世代にどのように引き継がせるか・・・今の日本を見ていると危ういと思えるのです」
「そこに、私の考えも行きつくのです。自然と言うその中に…」
「やはりそうでしたか」
 おじさまと山藤会長は心の交換をなさっておられました。国を、民族をどのように維持し引き継がせるか、その環境をどうするのかと言う事を、言葉を変えながら語っておられるのです。
もうお二人とも八十に手が届こうとしていながらまるで、青年のような高揚する言葉のやりとりを聞きながら何度も何度もうなずかれなくてはなりませんでした。
幸せな時間でした。
 時の経つのが早い、その時ほど感じたことがありませんでした。
 山藤会長は次回の約束を取られました。おじさまは深く承諾の意のお辞儀で受け止めておられました。
 すっかり築地の明かりは林立するビルの明かりにのみ込まれていました。
 外は秋の気配が忍びこんで来ていました。
 私はおじさまを高輪のホテルに案内し、そこで少しお言葉を頂き夜の街の雑踏の中に消えたのです。

     9

 夢を見ていました。
 あなたが砂漠の中をまるでラリーのように駆け抜けていくのを…。砂塵をまきちらせながら蛇行を繰り返しながらハンドリングを繰り返し疾風する姿を追っているものでした。砂は風によって流れる、まるで海の中を全速力で航海する舟のように見えたのです。砂煙が車輪の跡をすぐに消してしまいます。たちまちその姿は遠い彼方へと消えていきます。
 私はただ茫然と見送るだけ、胸が苦しくなって眼が覚めました。
 あの頃、私は私の思いに酔いすぎていてあなたの心を推し量ることもなかったのでしょう。ただただ愛する心を押し付けていたのかも知れません。独占したかった、と言えば幼かったという事になります。もっと広い心で寛容に接していたら、たがいが巡り合う事で成長していたのかもしれません。また、それが愛と勘違いをする歳でもあったのでしょう。想いを語り将来を夢見て舞い上がっていた、それを純粋な愛と思っていたことの結果なのかも知れません。出会いによって人は、それをきっかけにして深い想いを養い大きくなろうとするその行為こそが、人に取って付き合う事の意義であることを知らなかったという事です。愛するという意味を心の中だけで考えて夢見ていたのです。
「愛し結婚する事は、年老いて病気になった相手の下の世話まですることが出来る胆力がなくして結婚はできない」
 何時かこのような言葉を聞いた時に、私は胸を突かれました。果たしてそこまで考えていたのかと自分にとったのです。
 私は今はっきりと言う事が出来ます。私自身が砂漠の中の燈台にならなくてはならなかったという事を感じています。そこから照らし出す世界は真実の物を見せるための明かりでなくてはならないと言う事をです。
 海の波を照らす燈台、砂漠の砂波を照らす燈台、それは人間の心を照らしている事だとようやくわかりかけているのです。

 これからの世界、混沌としている社会と人間のあり方、全世界の人達がなにを望んでいるのか、それは行きつく先を迷わぬように希望と言う光をともしている燈台なのかも知れません。
 眠りから覚醒してこんなことを考えています。

 あなたとの離別がことの始まりで今があります。言葉を変えれば
私にこのような考えを芽生えさせてくれたのはあなたでした。人は何かのきっかけでたがいに明りをともすことなのかも知れません。
 自然と一体になって自然の中に生きる、そこには人としての心の明かりがなくてはならない、そんな感慨を持ちつつあるのです。
 私は明りを照らし続ける人になるように生きていくことでしょう。
 それが望むと望まざるとしてもです…。

 来年にはサハラ砂漠に立っているかも知れません…。

     


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